久留米絣
久留米絣は、模様を出すための絣糸と織物を構成する地糸とで織られた織物です。その起源については、インド、東南アジア、中央アジアなど諸説があり、はっきりしませんが、インドのアジャンタ洞窟寺院の壁画に描かれた仏像に四ツ目や矢羽根風の絣紋様が見られることからインドが絣の発祥地とも言われています。
六世紀、インドからの移民によってスマトラ、ジャワ、チモールなどにもたらされ、島伝いに北上して沖縄(琉球)に渡りました。我が国に現存する最古の絣は、法隆寺裂の「太子間道(たいしかんどう)」ですが、この技術は中国南部の技術のようです。日本で国産化されたのは18世紀以降、沖縄から伝来し、薩摩絣、久留米絣、伊予絣、大和絣、佐々絣、村上絣、備後絣、倉吉絣、弓浜絣、広瀬絣など、おもに西日本を中心に発達しました。この頃調度、木綿と藍染めが普及し始め、やがてこの技法は麻や絹にも用いられるようになります。その語源は、沖縄の八重山上布の絣糸を作る技法に「カッシィリィ(糸に染料をかすりつけること)」と言う語からではないかと言われています。
絣の紋様は、かすれて表現されるところに特徴があり、美しさもその優しいボカシ加減にあります。中でも久留米絣は、日本を代表する絣のひとつです。特に昭和32年に重要無形文化財に指定された久留米絣は、(1)手くびり、(2)天然藍の染、(3)投杼の手織りの三条件を満たすことが必要ですが、最高級品の綿織物としてマニアの間では宝物となりました。
久留米絣の歴史は、寛政11年(1799年)頃、久留米の井上伝と言う女性が考案したことから始まります。伝は、七歳ころから木綿を織り始め、12歳で優れた織子となっていましたが、自分の着古した藍染の着物が古くなって色が落ち、白い斑点になっているのに気がつき、それをヒントに新しい織物を考えたと言われています。古い着物を解きほぐして見ると、糸がまだらになっている事に着目し、同じようにするために糸の束を他の糸でくくり、染まらないようにして藍に浸けたのです。これが「加寿利」と名づけられ、霰織とも霜降りとも呼ばれて評判が立ち、やがて全国に知れわたります。その後、大塚太造によって絵絣が、また、牛島シノによって小絣(国武絣)などに発展して行きます。