さて、ここで問題が起こります。19世紀になると「美しくない芸術」。もはや、美術とは言えそうもない芸術が出現します。何が美しくて、何がそうでないか。そこには明確な答えはないようですが、単純に「美しい」と感じること以外の感情や主張がテーマとなってきます。
マルセル・デュシャン(1887~1968)は、フランス出身のアメリカで活躍した美術家ですが、20世紀美術に決定的な影響を残しました。なかでも、1917年ニューヨーク・アンデパンダン展に出展した「泉」は、大きな物議をかもすことになります。 レディ・メイドの便器を出品することで、芸術作品そのものへの懐疑(かいぎ)を表明したのでしょう。彼によれば「芸術作品において本質的なことは、それが美しいかどうかではなく、観る人の思考を促(うなが)すかどうかだ」と述べています。
モンローのポスターについての印象は、きれいとか、美しいとか、そのような言葉はすぐには思いつきません。男性ならセクシーと言うかも知れませんが、むしろ、悲劇的とか、メランコリーとか、快感情でない言葉が出てきそうです。モンローの映画や経歴からのイメージが、そうさせるのでしょう。つまり、美の概念が、単純に美しいと思う領域から、その他の感情的な領域にまで広がっています。実は、これこそが自由な芸術・現代アートの特徴なのでしょう。
ピカソの「ドラ・マールの肖像」は、どうでしょう。ただ、正面から見た顔と横顔の合成された絵であることは理解できますが、はたして美しいと言えるでしょか。正面から見たり、横から見たり、ピカソ自身がモデルの周りを回りながら描いた体験を、この絵を見る人が同じように疑似(ぎじ)体験できる、という人もあれば、くっきりと二重に描かれた目や凛々(りり)しい鼻筋からは、理性的で意思の強さを感じる、という人。そして、そんなに堅苦(かたくる)しく見ないで面白(おもしろ)さを楽しんだら良い、との見方もあるようです。いずれにしても、この作品は、好き嫌いのような感情的な対象ではなく、知的な解釈に重点がありそうです。でも、どう理解したら良いのか、実のところよくわかりません。