「美しさ」について、美学ではどのようにとらえているのか、気になるところです。ここでは、難解な学説を紹介したり、深い思考に立ち入ることはできませんが、論証の表層をのぞいてみます。少しでも興味がわけばセンスの向上に役立つでしょう。
近代美学は、ドイツの哲学者パウムガルテン(1714~1762)に始まり、「美学とは、美と芸術と感性を論ずる哲学」として展開されます。西洋では、「美」は芸術によって「美しい」と表現されるものに限定されていました。その後、「美」の範囲は、人工的な芸術の範囲から自然が持つ「美しさ」に広がりを見せます。これは、我が国の伝統的な和歌、絵画、庭園などが、自然を賛美(さんび)する情趣性(じょうしゅせい)に重点があったこととは大きく異なっています。核心的な論点として、ヘーゲルをはじめとする多くの学者が「美は体験のなかでしか存在しない」との立場に同調している、と美学者・佐々木健一氏は述べています。このことは、拙著「着こなし入門講座」のなかで解説していますので、以下に、その一部を引用しておきます。
「私たちが『美しい』と思うとき、心の中ではどのようなメカニズム が働いているのでしょうか?たとえば、一枚の絵画を見たとき、絵画そのものが美しいという情報を送ってくるわけではありません。視覚を通して認識した色彩、デザイン、風景、技巧(ぎこう)などが、自分の持つ過去の体験や記憶に照らし、あるいは、連想することで感動が起こります。
『猫に小判』とか、西洋には『豚に真珠』と言う諺(ことわざ)がありますが、これは意味や価値のわからない者には、どんなに貴重で価値のある物でも役に立たないと言う意味です。でも、感性そのものは、生まれながらの赤ちゃんには備わってはいません。一枚の絵画は、眼に見えるだけの意味のないモノでしかありません。子供が、無垢(むく)、無邪気(むじゃき)と言われるのは、そのためです。
つまり、感性は経験や学習によって後天的(こうてんてき)に蓄積(ちくせき)される知識なのです。桜の花が、冬の長い厳(きび)しい寒さに耐(た)え、一気に咲いたと思えば、ものの見事に散るさまは、日本人なら大きな共感を覚えます。もちろん、桜はそのような考えで咲いているハズもなく、美意識は見る者に内在する精神性や感性によって生まれているのです。」(資料:着こなし入門講座「美のメカニズム」)
「美しい」と感じることは、実に直感的で快(こころよ)いものです。その印象は、きれい、優雅、豪華、素敵、可愛い、お洒落(しゃれ)、格好良い、きものに精通(せいつう)した人なら、上品(じょうひん)、粋(いき)、渋(しぶ)い、格調高い、侘(わ)び・寂(さ)び、などと表現するかも知れません。